高遠城址公園の見どころを5つ——①桜雲橋、②本丸、③白兎橋、④南ゲート→信州高遠美術館→桜のトンネル、⑤大奥の絵島囲み屋敷——を写真メインにご紹介いたします。
この日は天気も良く、また満開のコヒガン桜を見られました。満開のコヒガン桜を見ることは地元にいなければ難しい、とネットに出ていましたのでラッキーでした。ましてはバスツアーでは日程が決まっていますので、運がよかったといえます。
実をいうと、高遠城址公園には2009年4月16日にも訪れています。4日違いですが、この時の高遠の桜は桜吹雪が何回も舞う終わりの方でした。桜吹雪もまた幽玄な美を見せてくれました。
では、高遠城址公園の満開のコヒガン桜をご覧ください。(四季の旅/2022-4-12)
【目 次】
高遠城址公園のコヒガン桜とは?
明治8年頃、高遠城址公園にコヒガン桜が植えはじめられました。今では樹齢130年を越える老木を含め、約1500本のコヒガン桜が見られます。コヒガン桜はやや小ぶりで赤みがあり、その可憐さから「天下第一の桜」と言われています。
県の天然記念物にも指定されて、2020年(平成2年)には、日本さくらの会による「さくら名所100選」に選ばれました。
天下第一桜碑 1934年(昭和9年)4月建立
【高遠城址公園の桜】見どころ5選
高遠城址公園の桜を見るには グラウンドゲートから入園
①高遠城址公園の桜[桜雲橋]
桜雲橋は「おううんきょう」と読みます。高遠の桜と言えば、この桜雲橋と問屋門(写真下・左端の建物)が入った写真を雑誌などでよく紹介されています。橋の手前で下に降り上を見上げると、これぞ「高遠の桜」といわれる絶景が見られます。
桜雲橋の向こうに見えるのが問屋門。この問屋門はもとは高遠の城下、本町の問屋役所にありました。江戸時代の主な街道には宿駅が定められ、問屋と称されていました。
問屋門を入ると、眼前には満開の桜の下、たくさんの人々が桜を鑑賞していました。
②高遠城址公園の桜[本丸]
2分ほど歩いて、右の方へ曲がると本丸です。
本丸からは、桜を通して南アルプスの絶景が望めます。そのほかにも、高遠公園碑、新城藤原神社、太鼓櫓など見どころがあります。
高遠公園碑
1881年(明治14年)建立。碑文は明治の三筆と言われた書家、巖谷修(いわやおさむ)。その子巖谷小波(さざなみ)は、日本のアンデルセンと称さわた明治の児童文学者です。
新城藤原神社
祀られている新城神とは、織田の大軍により最後をとげた武田信玄の五男・仁科五郎盛信の霊です。以前より高遠城内にあった藤原社と合祀したとあります。
太鼓櫓(たいこやぐら)
江戸時代、時刻を知らせるために太鼓を打っていたといいます。
③高遠城址公園の桜[白兎橋]
白兎橋は「はくとばし」と読みます。ツアー添乗員によると、この白兎橋からサクラの枝の隙間がハートに見える箇所があると説明を受けたのですが……。見つからず、写真を撮れませんでした(残念)。
白兎橋の上からの、桜の額縁をまとった中央アルプスの絶景が見られます。ハートはこの桜の下の方にあるらしいのですが……。
白兎橋の上から
そのほかに、廣瀬奇壁(ひろせきへき)・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう) 句碑があります。
白兎橋を渡って、南ゲートに向かう右側にある法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)という敷地にあります。石の両面にそれぞれの句が彫られています。(写真は奇壁の句)
[奇壁]斑雪(はだれ) 高嶺 朝光 鶯 啼いて居(遠く東の方、仙丈ヶ岳を眺めて詠見ました)
[碧梧桐]西駒は斑雪てし尾を肌脱ぐ雲を(駒ヶ岳の残雪が駒の姿に見えます)
高遠のコヒガン桜、こんな努力もされています
この桜は、樹勢が衰えた老木を若返リの方法によって蘇らせたものです。
若返りの方法は、まず幹の途中から出た若木の根に壁土をつけて、その根を約5年かけて大地に誘導します。根が大地に根付くと、親木の上部が枯れた後も、その若木は順調に育ちます。
この方法は、幹から出た根が親木の皮の水分で生きていることに着目して考え出されたもので、昭和28年(1953年)から行ってきました。高遠城址公園では、こうした若返り方法を始め、自然のカを大切にした方法を用いてこの貴重な樹林の保護に取り組んでいます。(立札の説明より)
④高遠城址公園の桜[南ゲート→信州高遠美術館→桜のトンネル]
高遠城址公園から一度南ゲートから外に出ます。ここまで約1時間。ゲートから出て再入園する場合、入園鑑賞券が必要になります。紛失しないようにご注意ください。
南ゲートを出て少し歩くとお店が2軒。左のお店で10分ほど休憩することにしました。『信州そば』を食べたかったのですが、待ち時間がどのくらいかわからないので、『桜ソフトクリーム』をいただきました。400円のダンゴ付きを注文。すずらん牛乳特製、かなりコクとボリュームがあり、空腹にもオススメです。
南ゲート→信州高遠美術館→サクラのトンネルへ
お店の前を右手に曲がると信州高遠美術館。その前の桜は満開。天気がよかったので、シートを敷いて昼食をとり、昼寝したいところです。しかし、コロナ禍で、ここではの飲食は禁止です。(飲食スペースは、数カ所決められていました)
信州高遠美術館の手前で左に曲がると、桜のトンネルです。
⑤大奥の絵島囲み屋敷
サクラのトンネルを抜けると正面に白山橋と左に高遠ダムがあります。橋から5分ほどで絵島囲み屋敷に着きます。
絵島はこのこじんまりとした屋敷で、どんな生活を送っていたのでしょうか?
囲み屋敷には、番人として5人の藩士が交代で昼夜を問わず詰めていたほか、身の回りの世話をする下女もいました。着物はすべて木綿、冬でも火鉢しか許されず、食事は朝タ2回で一汁一菜。38歳の頃からは自らの意思で魚も断ち、もちろん酒や煙草は禁じられていました。また、筆記用具の使用も許されず、ひたすら読経の毎日だったといいます。高遠で27年余を過ごし、寛保元年(1741年)4月10日、絵島は亡くなりました。享年61歳。(説明による)
大奥では権力を持っていた絵島ですが、この高遠での生活はあまりに質素でした。『平家物語』ではありませんが、栄枯盛衰という言葉が浮かんできます。
物語 まぼろしなりし わが絵島 墓よやかたよ 今うつつな里
(十月亭:有島生馬の俳号)
生島新五郎と絵島
当時の江戸城大奥に天英院派と月光院派の二大勢力があった経緯から、本事件は月光院の失墜を狙った天英院の陰謀であったと言われているが、事件後における月光院の影響力や、大奥勢力の相関関係などが不明であり、また天英院による謀議を裏付ける史料もないため、憶測の域を出ていない。
さらに、この陰謀説に関しては小説や映画などから生まれた創作の可能性もあり、山岸良二も天英院が代参制度を利用して事件化することは、その後に代参が規制対象となる危険性もあり、現実的ではないとしている。
江島が生島を長持の中に入れて大奥に忍び込ませ、逢瀬を繰り返したという話があるが、ただの俗説に過ぎず、当時の史料には書かれていない。
生島新五郎については、享保18年(1733年)に流刑地の三宅島で死去したとする説もあり、墓も三宅島にある。
大奥の絵島囲い屋敷を見たら、グラウンドゲート(入口)へ帰ります。15分ほどあれば帰れます。(写真は白山橋)
高遠城址公園の桜 入園観賞料
【個人】大人500円/小中学生250円
【団体】大人400円/小中学生200円
※大人は高校生以上、団体は20人以上
※障がい者手帳をお持ちの方と介助者(1名まで)の方は無料
【高遠城址公園】2023年4月1日(土)さくら祭り
【所在地】〒396-0211 長野県伊那市高遠町西高遠810−1
【電 話】 0265-94-2556
【高遠城址公園の桜】見どころ5選[終わりに]
高遠城址公園の見どころを5つ——①桜雲橋、②本丸、③白兎橋、④南ゲート→信州高遠美術館→桜のトンネル、⑤大奥の絵島囲み屋敷——を写真をメインに紹介してきました。
ネットによると、高遠のコヒガン桜の満開は見ることが難しいとありました。今回は高遠の満開のコヒガン桜を見られ、一生の想い出になりました。
じつは、2009年4月16日にもバスツアーで、高遠城址公園に一度訪れています。この時は、満開から一週間ほど後のことでした。ですから、桜吹雪が何回も見られ、とても幽玄的でした。
満開の桜、散り際の幽玄な桜吹雪、あなたはどちらを愛でますか?