伊藤若冲『芦雁図』18世紀
第一の吉祥、雁が卵を生む
ある日、仁徳天皇が宴を開こうとして、日女島(ひめじま:大阪市西淀川区姫島)に出かけました。すると、日女島で雁が卵を産みました。
天皇は建内宿禰命(タケウチノスクネノミコト)を呼び、大和国で雁が卵を生んだことがあるかと歌を詠みました。
たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生(かりこむ)と聞くや
(長生きの建内宿禰命よ、この日本の国で雁が卵を生んだと聞いたことがあるか)
渡り鳥である雁は、大和国で卵を産むことはありません。それは、良い奇跡として考えて良いのだろうか、と天皇は尋ねたのです。
建内宿禰命も、歌で答えました。
高光る 日の御子 諾(うべ)しこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾こそは 世の長人そらみつ 倭の国に 雁卵生(かりこむ)と 未だ聞かず
(よくぞ聞いてくれました。長く生きていますが、渡り鳥である雁が大和国で卵を産んだことは聞いたことがありません)
すると、(よくぞ申してくれたと)天皇は琴を建内宿禰命にたまわると、彼はまた歌でお答えしました。
汝が御子や 終(つい)に知らむと 雁は卵生(こむ)らし
(これは、あなた様の子孫が長い間国を治めるよう、吉兆として雁が卵を生んだのです)
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵(大阪府堺市)
第二の吉祥、枯野の琴の響き
仁徳天皇の世に、菟寸河(とのきがわ:所在不詳)の西に、一本の高い木がありました。
その木の影は、朝日に当たれば淡道島(あわじしま:淡路島)、夕日に当たれば高安山(たかやすやま:大阪と奈良の間の山)に達しました。
そこで、この木を切り船を作ると、とても早い船「枯野(からの)」ができました。
(日本書紀の応神天皇記に、軽く浮かび早く走るので「軽野(かるの)」といい、それが訛って「枯野」になったと伝えられています)
そして、この船で朝夕に淡道島の清水を汲んで、天皇が口にする飲料水の大御水(おおみもい)として献上しました。船がボロボロになってきたので、塩を焼くのに使いました。また、残った木で琴を作ると、琴の音は七里に響き渡りました。だから、人々はこんな歌を詠みました。
枯野を 塩に焼き、其の余り 琴に作り かき弾くと 由良の門(と)の 門中の海石(いくり)に ふれ立つ なづの木の さやさや
(枯野の船で塩を焼き、その余った木で琴を作って弾くと、由良(兵庫県の由良)の海峡の、海の中の岩礁に波に振れながら生えている海藻のように、さやさやと鳴り響いている)
天皇の御年は83歳。丁卯年(ひのとうのとり:西暦427年)の8月15日に崩御しました。御陵は毛受の耳原(もずのみみはら:大阪府堺市堺区大仙町)にあります。
仁徳天皇の前方後円墳
https://dot.asahi.com/wa/2018102300045.html
全長約486m/後円部径約249m/高さ約35.8m/前方部幅約307m/高さ約33.9mの日本最大規模の前方後円墳。『延喜式』は、この古墳を「百舌鳥耳原中陵」(もずのみみはらのなかのみささぎ)と命名し、現在は宮内庁が第16代仁徳天皇の陵墓に治定・管理している。
©️朝日新聞社
墳丘は3段に築成され、左右のくびれ部に造出し(つくりだし)があり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。明治5年(1872年)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが出土した。
また、アメリカのボストン美術館には、本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されているほか、円墳周囲には、「陪塚」(ばいちょう)と呼ばれる、小型古墳10基以上も確認されている。