ヤマトタケルの妃、弟橘比売命の犠牲
さらに、東へ向かったヤマトタケルは走水海(はしりみずのうみ - 浦賀水道・東京湾の入り口)で、海峡の神が起こした風浪のため、船で渡ることができません。
すると、妃の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が申し出ました。
「私が海に入り神を鎮めましょう、御子には天皇の使命がありますから。どうぞ皇子の東征を護らせ給え」
そう言うと弟橘比売命は菅を編んだ敷物、毛皮の敷物、絹の敷物を波の上に敷きました。その後、海に入って行きました。海は静まりましたが、7日後、弟橘比売命の櫛(くし)が浜辺に打ち上げられていました。ヤマトタケルはここに彼女の墓を作り、櫛を墓に納めました。
こうして、ヤマトタケルは東京湾を渡り、房総半島へ入り、いわゆる東の国の豪族たちを平定していくことができたのです。
「東国」という地の謂れ
大和に帰る途中、神奈川県の足柄山の坂道で白い鹿風の豪族を退治した時、
「我妻(あずま)はや - 我が妻よ」
と言いました。だから、その国を「東」というのです。
その後、ヤマトタケルは甲斐の国(山梨県)を回り、酒折宮(さかおりのみや)に着き、こう詠まれました。
新治(にひばり - 茨城の新治村) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
すると
かがなべて(日に日を並べて) 夜には九夜 日には十日を
こう、かがり火を焚いていた老人が歌の続きを詠みました。ヤマトタケルはその歌を褒めて、東国造に任命しました。
このようにして、ヤマトタケルは東国の豪族たちを平定して、尾張国に戻ってきました。先の約束通り、美夜受比売との結婚を済ませました。
伊吹山の神の怒りにあうヤマトタケル
ヤマトタケルは結婚の後、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境)の豪族を倒しに出かけました。
この時、「伊吹山の神とは、剣ではなく素手で戦おう」
と、ヤマトタケルは草薙剣を美夜受比売(ミヤズヒメ)の元において出かけたのです。
草薙剣を持って行かなかったことが、災いになったのかもしれません。
ヤマトタケルは山を登っていくと、牛ほどもある大きな白い猪に出会いました。
「この白い猪は神の使いであろう。今は殺さなくても帰る時に殺そう」
と、元来タブーとされていた、自分の意思を言葉にしてしまいました。
また、神そのものを「神の使い」と勘違いし、神が怒りを露わにしたのかもしれません。
にわかに空は曇り、大きな雹(ひょう)が降ってきました。その雹がヤマトタケルにあたり、彼を気絶させてしまったのです。
「私の心は常に空を翔けていきたいと願っているのだが…」
下山して意識は回復しましたが、ヤマトタケルの足はむくれ、歩くことさえままならなくなってしまったのです。
ヤマトタケルの死
ヤマトタケルは三重の村に着いた時、こう言いました。
「私の足は三重の勾餅(まがもち)のように腫れて曲がってしまった。とても疲れた」
そこで、その地を三重というのです。
愛しけやし 我家の方よ 雲居起ち来も
(懐かしいな〜、我が家の方から雲が湧いてくることよ)
この歌を詠むと、ヤマトタケルは危篤に陥り、
嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや
(美夜受比売の床の傍に置いてきた太刀と、草薙剣よ)
この歌を詠むと、ヤマトタケルは絶命しました。
ヤマトタケルの葬儀
大和にいる天皇の妃や御子たちは、ヤマトタケルの死の報せに集まってきて御陵を作りました。
すると、ヤマトタケルの魂は白い千鳥になって飛んで行きました。妃や御子たちは、どこまでも千鳥を追いかけてました。
千鳥は河内国の志幾(大阪府柏原市周辺)まで飛んで留まりました。そこで、その地に御陵を立てたので、その名を白鳥御陵(しらとりのみはか)と言います。
しかし、ヤマトタケルの魂である千鳥は、さらに天を翔けて行ったのです。