※本ページにはプロモーションが含まれています。

第24代仁賢天皇

袁祁王(おけのみこ:顕宗天皇)の兄の意祁王(おけのみこ)は、石上(いそかみ)の広高宮(ひろたかのみや:奈良県天理市)において天下を治め、第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)となりました。

仁賢天皇が、大長谷若建天皇(おおはつせわかたけるのみこと:雄略天皇)の皇女の春日大郎女(かすがのおおいらつめ)を娶って、生んだ御子は、高木郎女(たかぎのいらつめ)、次に財郎女(たからのいらつめ)、次に久須毘郎女(くすびのいらつめ)、次に手白髪郎女(たしらかのいらつめ:後の第26代継体天皇の皇后)、次に小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと:後の第25代武烈天皇)、次に真若王(まわかのみこ)の併せて6人になります。

また、丸邇(わに)の日爪臣(ひつめのおみ)の娘の糠若子郎女(ぬかのわくごのいらつめ)を娶って生んだ御子は、春日山田郎女(かすがのおだのいらつめ)です。

だから、仁賢天皇の御子は、併せて7人になります。

この中で小長谷若雀命(後の第25代武烈天皇)が、次に天下を治めることになります。

なぜ、仁賢天皇は父の仇・雄略天皇の娘を娶ったのでしょうか?
仁賢天皇は意祁王と呼ばれていた時、雄略天皇の墓を破壊せよ、という弟の顕宗天皇の命令を少しの墓を掘り返しただけでやめています。

「雄略天皇の陵を破壊したならば、後の人々は必ず非難するでしょう」
と、意祁王は言っています。
仁賢天皇は、意外に外敵を作らない中庸な感覚を持った人物であったのではないでしょうか。