※本ページにはプロモーションが含まれています。

雄略天皇の島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)雄略天皇の島泉丸山古墳(しまいずみまるやまこふん)

大長谷天皇(雄略天皇)を深く恨み報復する

顕宗天皇(けんぞうてんのう)は、その父王の市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)を殺した大長谷天皇(おおはつせのすめらみこと:雄略天皇)を深く恨み、その霊に報復したいと考えました。

そこで、天皇がその大長谷天皇の御陵を破壊しようと人を遣わそうとした時、兄の意祁王(おけのみこ)が注意を促しました。

「この御陵を破壊するのに他人を遣わしてはいけません。私が自ら行き、天皇の思い通りに破壊して参りましょう」
「では、そうしなさい」
天皇は、命じました。

こういうわけで、兄の意祁王が自ら向い、少しだけ御陵のかたわらを掘り、
「御陵を堀り壊しました」と報告しました。
すると、天皇は、意祁王があまりに早く還って来たことを不思議に思い、
「どのように壊したのか?」と尋ねました。

「大長谷天皇の御陵の傍らの土を少しだけ掘りました」

と、意祁王は答えました。
不思議に思った天皇が言いました。
「父王の仇に報復したいと思うなら、ことごとく御陵を破壊するのに、なぜ少しだけしか掘らなかったんだ」

「父王の仇を報いたいと思うのは当然のことです。しかし、その大長谷天皇は父の怨敵ですが、私たちの父の従兄弟です。また、天下を治めた天皇でもあります。
ここで今、父の仇というだけで、天下を治めた天皇の陵をことごとく破壊したならば、後の人々は必ず非難するでしょう。

ただし、父の仇は報復しなければなりません。だから、陵の傍らを少しだけ掘ったのです。既にこの辱めにより、後世に私たちの意志を示すには十分だと考えます」
意祁王はこのように話しました。

「それもまた大いに道理にかなうこと。言葉どおりで良いとしましょう」
天皇は、そう言いました。

そして、顕宗天皇が崩御すると、すぐに兄の意祁王が皇位を受け継ぎました。

顕宗天皇の御年は38歳で、天下を治めること8年。
御陵は片岡の石坏岡(いわつきのおか:奈良県香芝市北今市)の辺りにあります。陵名は傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)です。