第26代継体天皇の御子は男7柱、女12柱の併せて19柱
第15代応神天皇の五世の孫の袁本杼命(おほどのみこと)は、伊波礼(奈良県内)の玉穂宮(たまほのみや)において天下を治め、第26代継体天皇(けいたいてんのう)となりました。
継体天皇が、三尾君(みおのきみ)らの祖である若比売(わかひめ)を娶り生んだ御子は、大郎子(おおいらつこ)、 次に出雲郎女(いずものいらつめ)の2人です。
また、尾張連(おわりのむらじ)らの祖である凡連(おおしのむらじ)の妹、目子郎女(めのこのいらつめ)を娶り生んだ御子は、広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと:後の第27代安閑天皇)、次に建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと:後の第28代宣化天皇)の2人です。
また、意富祁天皇(おけのすめらみこと:仁賢天皇)の御子の手白髪命(たしらかのみこと)を娶り生んだ御子は、天国押波流岐広庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと:後の第29代欽明天皇)です。
また、息長真手王(おきながまてのみこ)の娘の麻組郎女(おくみのいらつめ)を娶り生んだ御子は、佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)です。
また、坂田大俣王(さかたのおおまたのみこ)の娘の黒比売(くろひめ)を娶り生んだ御子は、神前郎女(かむさきのいらつめ)、次に茨田郎女(うまらたのいらつめ)、次に馬来田郎女(うまぐたのいらつめ)の3人です。
また、茨田連小望(うまらたのむらじのおもち)の娘の関比売(せきひめ)を娶り生んだ御子は、茨田大郎女(うまらたのおおいらつめ)、次に白坂活日郎女(しらさかのいくひこのいらつめ)、次に小野郎女(ののいらつめ)またの名は長目比売(ながめひめ)の3人です。
また、三尾君加多夫(みおのぎみかたぶ)の妹の倭比売(やまとひめ)を娶り生んだ御子は、大郎女(おおいらつめ)、次に丸高王(まろたかのみこ)、次に耳王(みみのみこ)、次に赤比売郎女(あかひめのいらつめ)の4人です。
また、阿倍波延比売(あへのはえひめ)を娶り生んだ御子は、若屋郎女(わかやのいらつめ)、次に都夫良郎女(つぶらのいらつめ)、次に阿豆王(あずのみこ)の3人です。
この継体天皇の御子たちは、男七柱、女十二柱の併せて十九柱になります。
継体天皇の御年は43歳。西暦527年4月9日に崩御
この中の天国押波流岐広庭命(あめくにおしはるきひろにはのみこと:第29代欽明天皇)が、次に天下を治め、次に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと:第27代安閑天皇)が天下をお治め、次に建小広国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと:第28代宣化天皇)が天下を治めました。(記述では第29代欽明天皇の順番が前後していますが)
そして佐々宜王(ささげみこ)は、伊勢の神宮(かみのみや)に仕えました。
継体天皇の御世に、竺紫君石井(つくしのきみのいわい)が天皇の命令に従わず、無礼な事が多くありました。
そのため、物部荒甲之大連(もののべのあらかいのおおむらじ)、大伴之金村連(おおとものかなむらのむらじ)の二人を遣わせて、竺紫君石井を殺させました。
天皇の御年は43歳。西暦527年4月9日に崩御しました。
御陵は、三嶋(みしま)の藍陵(あいのみさき:大阪府茨木市大田)にあります。陵名は三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)で、墳名は太田茶臼山古墳(おおたちゃうすやまこふん)です。