※本ページにはプロモーションが含まれています。

第30代敏達天皇

欽明天皇(きんめいてんのう)の御子の沼名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)は、他田宮(おさだのみや:奈良県桜井市内)にて天下を治め、第30代敏達天皇(びだつてんおう)となりました。天下を治めた統治した期間は14年です。

敏達天皇が、庶妹(ままいも:腹違いの妹)の豊御気炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)を娶り生んだ御子は、静貝王(しずかいのみこ)またの名は貝蛸王(かいたこのみこ)、次に竹田王(たけだのみこ)またの名は小貝王(おかいのみこ)、次に小治田王(おはりだのみこ)、次に葛城王(かずらぎのみこ)、次に宇毛理王(うもりのみこ)、次に小張王(おはりのみこ)、次に多米王(ためのみこ)、次に桜井玄王(さくらいのゆみはりのみこ)の併せて8人です。

また、伊勢大鹿首(いせのおおかのおびと)の娘の小熊子郎女(をぐまこのいらつめ)を娶り生んだ御子は、布斗比売命(ふとひめのみこと)、次に宝王(たからのみこ)またの名は糠代比売王(ぬかしろひめのみこ)の併せて2人です。

また、息長真手王(おきながのまてのみこ)の娘の比呂比売命(ひろひめのみこと)を娶り生んだ御子は、忍坂日子人太子(おしさかのひこひとのひつぎのみこ)またの名は麻呂古王(まろこのみこ)、次に坂騰王(さかのぼりのみこ)、次に宇遅王(うじのみこ)の併せて3人です。

また、春日中若子(かすがのなかつわくご)の娘の老女子郎女(おみなこのいらつめ)を娶り生んだ御子は、難波王(なにわのみこ)次に桑田王(くわたのみこ)、次に春日王(かすがのみこ)、次に大俣王(おおまたのみこ)の併せて4人です。

この敏達天皇の御子すべて併せて十七柱になります。

その中の忍坂日子人太子(おしさかのひこひとのひつぎのみこ)が、庶妹の田村王(たむらのみこ)またの名は糠代比売命(ぬかしろひめのみこと)を娶り生んだ御子は、岡本宮にて天下を治めた第34代舒明天皇(じょめいてんのう)です。

次に中津王(なかつのみこ)、次に多良王(たらのみこ)の併せて3人です。

また、漢王(あやのみこ)の妹の大俣王(おおまたのみこ)を娶り生んだ御子は、知奴王(ちぬのみこ)、次に妹の桑田王(くわたのみこ)の併せて2人です。

また、庶妹の玄王(ゆみはりのみこ)を娶り生んだ御子は、山代王(やましろのみこ)、次に笠縫王(かさぬいのみこ)の併せて2人です。

この忍坂日子人太子の御子すべて併せて七柱になります。

敏達天皇は、甲辰年(きのえたつのとし:西暦584年)の4月6日に崩御しました。

御陵は、川内の科長(しなが:大阪府太子町太子)にあります。陵名は河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)、墳名は太子西山古墳です。