八咫烏の導きにより、豪族の兄エウカシを倒し、弟オトウカシを配下にし、カムヤマトイワレビコはさらに進軍していきます。
土着の豪族ヤソタケルとエシキ&オトシキ
忍坂(おさか - 奈良県桜井市)に来ると、ヤソタケル(八十建 - 多くの勇猛な者たち)という尾の生えた土雲(つちぐも - 反抗する土着民を蔑んだ言葉)が岩穴で待ち構えて唸っていました。
そこで、カムヤマトイワレビコは、ヤソタケルにご馳走を届けさせます。
料理人には太刀を持たせ、「歌が聞こえたら、皆で切りかかれ」と伝えておきました。
ある時間を見てから、カムヤマトイワレビコは、「久米の兵士らが、撃たずにおくものか」と歌いました。こうして、ヤソタケルは撃ちとられました。
また、カムヤマトイワレビコは、兄イツセノミコトが死ぬことになった因縁の敵トミビコを撃とうとした時も歌いました。
エシキ(兄師木)とオトシキ(弟師木)を撃った時も、歌いました。(師木は大和の地名です)
天子のつくった詩歌を「御製(ぎょせい)」といい、この時「久米歌」として、戦いが描写されました。
ニギハヤヒノミコト(邇芸速日命)登場
「天つ神御子が天降りされると聞いて、追って降ってきました」
と、ニギハヤヒノミコトが証を持って現れ、カムヤマトイワレビコに仕えることになりました。この時、ニギハヤヒノミコトは、トミビコをすでに従え、彼の妹トミヤビメを妻にしていました。
ニギハヤヒノミコトは、カムヤマトイワレビコとイツセノミコトの二柱の神が手こずったトミビコを支配していましたので、大した武将と言わざるをえません。彼の子孫がウマシマジノミコトで、物部連(もののべのむらじ)、穂積臣(ほづみのおみ)、婇臣(うねめおみ)の祖です。
こうして、天つ神御子カムヤマトイワレビコは長い東征を終えて、大和を平定しました。畝火(うねひ)の白檮原宮(かしはらのみや - 奈良県橿原市畝傍町)で天下を治めました。初代の天皇に即位すると、カムヤマトイワレビコは神武天皇と呼ばれます。
『千と千尋の神隠し』ハクの本名「ニギハヤミコハクヌシ」のモデルはニギハヤヒノミコト(饒速日命)
ハクの本名「ニギハヤミコハクヌシ」のモデルは日本書紀に登場し、神武天皇に大和国を献上した神・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)。「日本」の名付け親でもあり、この国に稲作文化を伝えた御方だそうです。
この知識があると、千尋におにぎりをあげた理由も色々深く感じますね。#千と千尋の神隠し pic.twitter.com/yXhsEeG88y
— ハマダヒデユキ (@yukitadie56) January 7, 2022
ニギハヤヒノミコトはアメノオシホミミノミコトの子。ニニギノミコトの天孫降臨に先立ち、十種神宝を持ち、32神を伴って河内国に降り、ナガスネヒコのミカシギヤヒメを妃にしていました。
ナガスネヒコ(長髄彦)はトミノナガスネビコ(登美能那賀須泥毘古)で、トミビコ(登美毘古)はナガスネヒコの異名。
大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説もあります。
【ニギハヤヒノミコトを祀っている主な神社】
- 石切劔箭神社(東大阪市)
ニギハヤヒノミコトが天降ったとされる石切山に鎮座。日本最古の神社の一つ。ニギハヤヒノミコトは物部氏の祖神とされた大和朝廷の一大雄族です。 - 辛国神社(堺市)
- 稲蔵神社(生駒市)
- 矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市)
- 石切劔箭神社東京分祠(港区)
- 伊勢天照御祖神社(久留米市)