※本ページにはプロモーションが含まれています。

第21代雄略天皇

大長谷王子、第21代雄略天皇に

大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと:大長谷王子(おおはつせのみこ)は、長谷(はつせ)の朝倉宮(あさくらのみや:奈良県桜井市脇本)で天下を治め、第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)となりました。

天皇は、大日下王(おおくさかのみこ:仁徳天皇の御子で雄略天皇の叔父)の妹、若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶りました。この若日下部王との御子はおりません。

また、自害した都夫良意富美(つぶらおおみ)の娘の韓比売(からひめ)を娶って生んだ御子は、白髪命(しらかのみこと、後の第22代清寧天皇)と妹の若帯比売命(わかたらしひめのみこと)です。

そこで、白髪太子(しらかのひつぎのみこ:白髪命)の御名代(みなしろ)として白髪部(しらかべ)を定め、また長谷部の舎人(とねり)、河瀬(かわせ)の舎人を定めました。

雄略天皇と中国の呉人

雄略天皇の御世には、呉人(くれびと:中国南方の人々)が大陸から日本へ渡って来ました。
そして、その呉人を呉原(くれはら:奈良県明日香村)に定住させました。そこで、その地を呉原(くれはら)というのです。

当初、大后の若日下部王(わかくさかべのみこ)が日下(くさか:大阪府日下町辺り)に住んでいた頃、雄略天皇は大和から日下の直越の道(ただごえのみち)を通って、河内にやってきました。

大県主の堅魚木の家

雄略天皇は山の上に登って国内を見渡していると、堅魚木(かつおぎ)を屋根の上にのせている家がありました。天皇は、その家を尋ねさせて言いました。
「その堅魚木を屋根の上にのせているのは誰の家だ」

堅魚木と千木

天皇のお伴をしているものが答え、
「志機の大県主(大阪の柏原市、八尾市辺りの豪族)の家です」
と申し上げました。

そこで天皇は、
「奴(やっこ)め、自分の家を天皇の御殿に似せて造るとは何事か!」
と仰せになり、人を遣わせてその家を焼かせようとしました。
すると、大県主は恐縮し、ひれ伏し、
「私は愚かでした。愚かなうえにそのことに気付かず、誤って作ってしまったことは、畏れ多いことです。お詫びの品物を献上いたします」
と申し上げ、布を白い犬にかけ、鈴をつけ、自分の親族の腰佩(こしはき)という名の者に犬の綱を持たせて献上しました。
そこで、天皇はその家に火をつけるのを止めさせました。

雄略天皇、献上された犬と歌を若日下部王の所へ

そして、雄略天皇は若日下部王の所に向かい、献上された犬を、
「これは今日、道中で得た珍しい物である。そこでこれを結納の品としよう」
と伝えさせ、その犬を贈りました。

すると若日下部王は天皇に、
「あなた様が、日を背にしてお御出ましになったことは、とても畏れ多いことです。私の方から宮中に直接参上してお仕えいたしましょう」
と、伝えました。

そこで、天皇は宮に帰る時に、山の坂の上に行き立って、次の歌を詠みました。

日下部の 此方(こち)の山と たたみこも 平群(へぐり)の山の 此方此方(こちごち)の 山の峡(かひ)に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮(はびろくまかし) 本(もと)には いくみ竹生(たけお)ひ 末辺(すゑへ)には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには率寝(ゐね)ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ

日下部のこちらの山と、大和の平群の山との、あちこちの山々の間に、立ち茂る葉の広い樫の木よ。根元には竹がまとまり生え、先の方には竹が重なり茂って生えている。
私たちは竹がまとまって生えるようには組み合って寝ることもなく、また重なり茂る竹のようにも寝ることはないが、必ず後には組み合って寝たいものだ。愛しい妻よ。ああ。

そして、雄略天皇はこの歌を使いの者に持たせ、若日下部王の元に返しました。