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第23代顕宗天皇

顕宗天皇の父王、市辺之忍歯王の遺骨の発見

伊弉本別王(いざほわけのみこ:第17代履中天皇)の御子、市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)の御子の袁祁之石巣別命(おけのいはすわけのみこと)は、近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で、天下を治めました。第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。8年間の天下の統治でした。

顕宗天皇は、石木王(いわきのみこ)の娘の難波王(なにわのみこ)を娶りましたが、子はおりませんでした。

天皇の父王の市辺之忍歯王の遺骨を探した時、淡海国(おうみくに:近江国 - 滋賀県)の賤しい老媼(おみな)がやって来て申し上げました。
「王子の御骨を埋めた所を、私はよく知っております。王子の御骨であることは、御歯(みは)を見ればわかることでしょう」
市辺之忍歯王の御歯は、三枝(さきくさ)のように押歯(おしは:八重歯)だったのです。

顕宗天皇は人民を集め、その御骨を探し見つけ出します。
そして、蚊屋野(かやの)の東の山に御陵を作って埋葬し、韓袋(からぶくろ)の子らにその御陵を守らせました。
その後、天皇はその御骨を持ち、河内に帰ってきました。

賤しい老媼は、置目老媼の名を賜わる

河内に帰った天皇は、老媼が市辺之忍歯王が葬られた場所を忘れずに覚えていたことを誉め、置目老媼(おきめのおみな)と名を賜いました。

また、その老媼の住む家を宮のすぐかたわらに作り、毎日必ずお召しになりました。そのために、鐸(ぬりて:釣鐘の形をした大きな鈴)を御殿の戸にかけ、その老婆を召す時には、必ずその鐸を引いて鳴らし、歌を詠みました。

淺茅原(あさぢはら) 小谷(をだに)を過ぎて 百伝(ももづた)ふ 鐸(ぬて)響(ゆら)くも 置目来(く)らしも
茅の低い原や小さな谷を過ぎて、鐸(ぬりて)の音が遠くまで響いている。きっと置目(おきめ)来ているだろう

しばらくして、置目老媼は天皇に申し上げました。
「私は、とても老いてしまいました。故郷に退きたいと思います」
天皇はその申し出の通り、置目老媼が故郷に帰る時、見送り、歌を詠みました。

置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠(やまかく)りて 見えずかもあらむ
置目よ、近江の置目よ、明日からは山に隠れて見えなくなるのだろう

顕宗天皇、かつて御粮を奪った猪甘の老人を罰す。

また、顕宗天皇は父が殺される災難から逃れる途中で、猪甘(いかい)の老人(おきな)に持っていた御粮(みかれい:保存食)を奪われたことがありました。天皇は、その老人を探しました。

その老人を探し出すと、飛鳥河の河原で斬り、またその一族の膝の筋も断ち切りました。そのことにより、今に至るまで、その子孫が大和に上る日には、必ず自然と足が不自由になるのです。
そして、子孫にその老人のいた場所をよく見させました。だから、見せしめとなったその地を「志米須(しめす)」というのです。